被害者の救護義務とは
交通事故によって運転者のまずしなければならないことは、被害者を救護するということです。
人命の尊重こそドライバーの基本的な心構えです。
法律は被害者の救護について規定していますが、そこにはどのような問題点があるのかについて、道路交通法七二条第一項前段は救護の義務を定めています。
この規定は負傷者の救護義務と、この義務に違反した運転者に対しては、五年以上の懲役または五〇万円以下の罰金を科する旨を定めております。
救護の義務は、本来なら警察官や医師の指示に従ってなされるべき性質のものなのでしょうが、法は被害者の救護がおくれたためとりかえしのつかない結果を招くことのないように、運転者に即時の直接の義務を負わせております。
そこで、救護義務の成立には車両の運転により他人に傷を負わせたことが前提になります。
この場合、運転者の過失の有無、違法性の存否は問題になりません。
人身事故が発生した以上、その事故についての責任の有無は別として、直ちに救護させる必要があることから、この義務が規定されたものだからです。
したがって運転者は、自分に過失がなくても、自己の単による傷害事故が発生した以上、直ちに車を停めて、被害者の受傷の程度を確認して救護に当たらなければならないことになります。
自動車による衝突の認識はあっても、人の死傷についての認識がなかったときにも、救護義務があるのか否かという問題があります。
運転者が衝突したという程度の認識があれば、経験則上は人の身体への影響は当然に考えられるので、積極的に受傷についてまでの認識は不要であるとの学説や判例がありました。
しかし、衝突があったからといって、絶対的に受傷の結果が生ずるわけでもありませんし、法文上「人の死傷」と明文で記載されてある以上、未必的な識別にせよ、人の受傷の発生そのものについて認識がなければならないと考えられます(最高裁昭和四〇年一〇月二七日判決)。
したがって、実際には人が受傷していたのに、運転者は単に自動車の損害しかないと考えていた場合は、刑法の錯誤の理論によって軽い刑で処断されることになります(東京高裁昭和四一年一月一四日)。
しかし、かなり強い衝突であれば、どんなに運転者ががんばって受傷の結果については認識がなかったと主張しても、裁判所は強い推定を働かして、認識ありと判断されるものと思われますので、結果的にはどの説をとっても大きな差は生じないと考えます。
救護する必要があるかないかを加害者の運転者が判断してもよいとした判例(札幌高裁昭和二七年七月一七日)もありますが、通説は否定的です。
すなわち、学説では、負傷の結果がまったくない場合なら格別、被害者が受傷している以上それに応じて救護すべきものであり、その判断を加害者がすることは妥当でないとしています。
昭和四五年四月一〇日の最高裁の判例も、受傷の程度が軽微なため、被害者が医師の診療を受けることを拒絶した場合を除き、少なくとも被害者をしてすみやかに医師の診療を受けさせる措置をとるべきで、加害運転者が自己の判断で軽微だから治療の必要がない旨を判断することは許されない、としています。
その後の裁判例は、ほぼこの最高裁判例にならっています。
したがって裁判所の判断はきびしいのが実情ですから、加害運転者の現場での判断はより慎重でなければなりません。
運転者は、常に救護義務があるというわけのものでもありません。
つぎのような場合は、一般に救護義務はないといわれています。
@運転者自身が負傷した場合
ごく軽微な場合は別ですが、運転者自身が受傷して救護を要するような場合には救護義務は免除されます。
A第三者の手で直ちに救護された場合
みずから救護する余地のないほどすみやかに救護されたときには、その必要性は考えられないからです。
B被害者のほうから「なんともありません。どうもすみません」といったので、よかったと現場を去った場合
被害者がみずから救護の必要のないことを判断しているから、加害者の判断ではないとする考えです(東京高裁昭和二九年七月一九日)。
C被害者みずからが何人の手も借りずに、運転者が救護する前に診療を受けた場合
これも加害者の救護の余地がないからと思われます(盛岡簡裁昭和三人年二月五日)。
以上のほか、被害の結果がきわめて軽微であり、何人が考えても治療を必要としない場合とか、被害者が頑強に医師の診療を拒絶しているような場合には、救護の必要性はないと考えられます(釧路地裁帯広支部昭和四一年三月二九日)。
救護義務の内容は、は、負傷者の傷害の部位とその内容に応じた救護義務といえます。
止血などの応急措置、人工呼吸、病院への搬入、救急車の要請、保温、冷やし、などがこれにあたるものといえます。
一般に外傷が頭部や頚部の打撲の時には、内出血や神経損傷を生じていることもありますので、外形のみで判断せず、医師の診断を受けることが必要です。
後日になって判明するよりも、一日も早い治療が加害者、被害者双方にとってよい結果をもたらすものです。
運転者はみずから直接に救護する義務が負わされています。
したがって第三者にまかせたままで放置しておくことは許されません。
ただ未成年者の場合は、自動車に同乗していた親権者の父などが本人に代わって救護の措置をとったときは、本人がみずから行為したのと同視できますので、この義務は免れると考えられています。
法文によれば救護義務は負傷者とあるので、ないかという問題があります。
死者に対して、生と死の区別は必ずしも容易ではないことは、ように、専門家ですら判定は困難なことです。
即死してしまった者に村しては救護の義務はないのでは本来救護という概念がはいる余地はありません。
しかし臓器移植問題で脳死か心臓死かとマスコミをにぎわした死の判定についてまで、事故の現場で気の動転している運転者に求めるということはできにくいことですし、生命の尊重からいっても妥当なことではありません。
そこで判例は、死亡していることが一見明白な者以外については、とりあえず救護の措置をとるのが被害者の保護を目的とする立法趣旨に合致するものであるとして、救護措置を求めています(最高裁昭和四四年七月七日)。
ですから即死事故であっても、自動車にひかれて頭部が破裂してしまったような場合とか、頚部が切断されてしまったように、素人の誰もが死亡したと判断できるような場合を除いては、救護義務をつくさなければなりません。
同乗者が事故を起こした運転者に対して、「このまま行ってしまおう」といったために運転者がその場から逃げ去ってしまったようなときに、この同乗者にいかなる責任が科せられるが問題になります。
救護義務違反の教唆犯になるのか、救護妨害罪になるのかの問題があります。
前者であれば五年以下の懲役または五〇万円以下の罰金を、後者であれば三〇万円以下の罰金にすぎませんので、量刑の上では大きな差があります。
一般に妨害罪の妨害の方法は、実力行使のみならず口頭によるものでもよいとされています。
たとえばタクシーの乗客等が運転者に「急ぐからこのまま行ってくれ」と要求し救護をさせなかったような場合には、妨害罪にあたるといわれています。
ですから、外形的には同乗者の同様の言葉があってもどちらの罪に該当すると判定されるのか、非常にむずかしい問題になります。
結局は、運転者の内心の意思が救護しようと決意していたのか否かにかかってきます。
したがって、運転者の意思にどの程度に影響を与えたかが問題を決する鍵となるようです。
最高裁判所昭和四二年三月一六日の判決では、救護措置を怠る意思のなかった運転者らを教唆して新たに犯意を生ぜしめ、義務違反をさせたような場合には同法七三条の妨害罪ではなく、教唆罪が成立するとしています。
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